自己主張におけるドイツ人と日本人

原始ルックで自己主張!?



選挙期間中は特にそうだが、朝日や毎日に代表される極左報道機関による言論弾圧アジテーションは止まらない。
こういった極左偏向新聞を読んでいると、日本は悪魔の国で、将来すら見えないように思えてくる。そして、安倍首相は悪の権化といったところか。日本の極左報道機関による激しい自己主張には閉口する。
曖昧な日本政府も、そろそろ本腰を入れて自己主張をしていかないと、何れは極左報道機関、しいてはその先に潜む中韓の傀儡政権に落ちぶれる事だろう。


朝日・毎日VS読売・産経 米の慰安婦決議で新聞社説真っ二つ (J-CAST)
捏造にもかかわらず、堂々と喧伝する朝日・毎日には恐れ入る。



さて、自己主張といえば、日本人の間ではドイツ人は自己主張が強いと思われている。また、ドイツに長年住んでいる日本人でもそう信じて疑わない人が多い。だが、少し考えてほしい。


そもそも、自己主張の定義とは一体何なのか。


“主張”を大辞泉で引いてみると、『自分の意見や持論を他に認めさせようとして、強く言い張ること。』と記載されている。冷静に考えると、日本人から見てドイツ人は自己主張が激しいと思われる事象は、実際には価値観の違いから由来するものが多いのではないだろうか。


教育現場などではドイツは自己主張を育てていると杓子定規の様に喧伝されているが、私などは知識ばかり増えた最近のマセタ日本の子供よりも、純朴で擦れていないドイツの子供の方が、自己主張が少ないように思われる。そもそも、“こだわり”や“わがまま”に関して言えば、日本の子供も大人も、ドイツ人よりも自己主張が激しい。
ドイツの子供はグルメではないから極端な話、毎日フライドポテトでも文句を言わないし、日本の子供のように金銭的に豊かではないから、休みのたびに何処かへ行きたいなどとゴネない。
昨今のドイツ国内における学力低下は、自己主張よりも協調性を重んじた結果ともいえる。
他人は他人と捉えて、我武者羅に頑張る子供はドイツでは少ない。


日本人は、“こだわり”との響きが好きで、逸品や自分だけのポリシーに拘る。“こだわり”とは、悪く言えば固執や執着との意味を成す。それに比べて、ドイツ人は物や食に対して余りこだわらない。
物においてはドイツ人のブランド品嗜好の少なさも一理あるが、食においては更に顕著で、ドイツ人を食事に誘い「何が食べたいか?」と問うと大概は「EGAL(どうでもよい)」との答えが返ってくる。それに比べて、日本人はイタリアンは飽きただの、中華は昨日食べただの、今日は日本食が食べたいだのと自己主張が激しい。毎日、ソーセージとパンだけでも我慢できるドイツ人にとって、日本人の食に対する自己主張は理解できない。


甘やかされ何でも手に入り、趣味も多彩な日本の若者等は、刺激を知らず趣味も少ないドイツ人の若者に比べてワガママ、即ち自己主張が激しいのは明確だ。
オタク文化も、日本の多彩なスポーツレクリエーションも、極論でいけば自己主張の権化といえる。JAIN(ハイでもイイエでもない)が流行語になっている曖昧でノンポリなドイツの若者とは違う。



日本の家は土足禁止だが、仮に土足禁止に慣れていないドイツ人が訪問したとしよう。
ドイツを知らない日本人が、強情に土足禁止を説いたとしても、果たして何人のドイツ人が「はいそうですか」といって素直に靴を脱ぐだろうか。中には自分の足が臭いとの理由で、絶対に脱がないドイツ人も居る。こういったドイツ人は自己主張が強い事になるのだろうか。
それよりも、ドイツに居ながら日本の風習を執拗に強制する日本人の方が、自己主張の強い人間だと思えるだろう。


では実際に、日本人はどういった場面でドイツ人は自己主張が激しいと思うのか。
例えば職場のドイツ人による「私の仕事は此処まで。だからそれ以上は絶対にしない」「私は、今日は17時に何が有っても絶対に帰る(緊急な仕事が生じても本当に帰る)」「私の給料が実際の仕事に比べて少ないから、賃上げしろ」といった発言に対してだろうか。
だが、これらはドイツでは誰もが当たり前と考えている行為であり、自己主張というよりも、当然の権利要求とも言える。これら発言は、法や秩序を守るドイツ人的概念を端的に顕している。つまり、自己主張ではなく、あくまでも他との協調故に生じた事象といえる。
「私の仕事は此処まで、だからそれ以上は絶対にしない」に関しては、責任の明確化、作業分担による効率化、他人の仕事を奪わないとの配慮が窺える。
定時就業も賃上げも、不当な労働環境を生じさせず、しいては職場全体に正当性を生じさせ不平等感を無くす効果を齎す。
ドイツの会社は緩やかな序列だ。故に上司といえども、自己主張を押し通す事は少ない。対照的に、日本の企業は上司が絶対な場合が多いが、そういった環境で自己主張の激しい上司の部下になり、ストレスを溜め込む日本人も多い事だろう。


ドイツ人は、法や秩序を脅かすものに対しては、激しく抗議する。例えば、集合住宅内で夜中に騒音が有った場合は、日本人であれば、事を荒立てないように注意するだけだが、ドイツ人は惜しげも無く激しく抗議する。だが、これは秩序を乱す行為に対する公を代表しての戒めであり、自己主張とは違う。


以上からも、他民族(他国民)に対し自己主張が強いと思う感情は、文化の相違による反応の違いに対する驚きの表れといえる。故に、自民族(自国民)にとってどうでも良いことに対し、激しく主張されたからといって、その相手が強い自己主張を持つとの事にはならない。


さて、この自己主張と集団主義は相反するように思われるが、そうでもない。
日本人の強い自己主張は身内だけに限られている。そして、和の精神やORDNUNG(秩序)も自己主張の弱さが真髄ではない。
これら思想の真髄とは即ち、“助け合い精神”と“平等思想”に凝縮される。ドイツ人も日本人も、この両精神により自己主張が緩和され公で団結協力できるのだろう。
こういった精神は大切にしていきたいが、日本人の厄介なところは外敵にまでも同じ精神を多用するところか。アメリカや中朝韓に対して、果たしてこの精神は有効か。日本のマスコミや政府の、覚醒と成長が望まれる。