「わが国は他国を一度も侵略したことが無い」という傲慢

しばしば韓国人は「わが国は一度も他国を侵略したことがない。それに比べて日本は・・・」と妄言を吐く。だか、少し考えてほしい。残念ながら人類の歴史上、国家に戦争は付き物だ。村は国家と同じく共同自治体であるが、それほど生産は必要ない。しかし、国家ともなると話は違う。産業革命以前の国家(その後も余り変化は無いが)において、存続するにあたって多くの民衆をまとめ収入を得る為には、新たな土地が必ず必要になってくる。これは私が言うまでもなく当然の事だが、それすらも韓国人は理解できなくなったのであろうか。韓国という国家がある日、荒地に突然出来上がった訳でない事は、子供でも理解できそうなものなのだが・・・。韓国を国家と認めるのであれば、韓国が現在に至るまで、どのような侵略行為を犯し多くの人々を虐殺し蹂躙してきたか、大雑把ではあるが紹介してみたい。朝鮮戦争は言うまでもないが、それ以外においても日本や周辺諸国は甚大な被害を蒙ってきた。


朝鮮半島初の統一国家である高麗は、どのようにして誕生したのであろうか。それこそ、陰謀と侵略の歴史であった。南朝鮮には元々、大和言葉を話す人々が住んでいた。任那時代の南半島は、民族及び言語においても日本と同じであった。その後、百済が起こり民族の統合が図られ大和言葉と多少の違いが生じたが、それでも日本とのつながりは深かったと思われている(それは後の歴史からも証明される)。その百済は、唐・新羅の連合軍に滅ぼされる。百済の残党は百済再建の為に、人質(表現が悪いが、今川時代の家康の様な状態だったのだろう)として日本で生活していた皇太子・豊璋王を擁立するために、宗主国である日本に援軍を求めた。朝鮮半島の同族でもある百済の復興と、そして朝鮮半島への影響力を願った日本は朝鮮半島に大軍を送った。しかし、当時既に強大な国家を築いていた唐には敵わなかった。これによって、古代における日本の朝鮮半島への影響力は無くなった。
その後、唐は粉砕した百済高句麗の領土を直轄地とし、同盟国の新羅にも恭順するように催促した。しかし、新羅高句麗の残党と手を組み、唐に対して叛旗を翻した。最終的に新羅は唐と和議に持ち込むことが出来、朝鮮半島新羅によって統一された。この事大主義、そして寝返りの早さは今も変わっていないのであろうか。日本人の血を汲む百済の人々は大量に日本に逃れなければならないほど、百済への侵略は酷かったのかも知れない。今も海外逃亡を続ける韓国人、そして過去に日本に出稼ぎに来た在日朝鮮人の人々は彼らの心情を少しでも理解できないであろうか。


そして、元寇では元の一部と化した朝鮮が元に対し甘言をして日本に侵略させようと画策した。当時の高麗・中烈王は「日本は未開で文明を知らない国です。故に私どもに軍隊を預ければ、日本を元の僕とさせる事を約束します。」とフビライに対し佞言している。高麗によって発奮された元は、これにより日本侵略を実行した。元寇での、対馬における残虐非道行為は決して忘れてはならない。だが実際には、元軍の主力はモンゴル人でも漢人でもない。考えてほしい、騎馬民族のモンゴル人が不得手な海軍を結成するのだろうか?高麗は戦費を元からせしめて日本を自国の手で侵略しようとしたのだ。故に元は金を出したが、兵は殆ど出していない。高麗が勝手に日本を侵略し国力を弱める事に対し元は何の感慨も持っていない。万が一にも日本を占領したとしても、元にとっては一石二鳥であったのだろう。故に主力が高麗人であったのは言うまでも無い。文永の役は総勢25万人、そのうちモンゴル人は30人、高麗人は13万人。弘安の役での総勢は5万人、その中でモンゴル人は150人、方や高麗人は2万5千人であった。彼らによって侵略の被害にあった最初の地域は対馬壱岐だ。そこで島民の男は赤子から老人に至るまで虐殺され、女はさらわれ彼らの慰め者となり、あるものは殺され、あるものは非常食とされ、あるものは元に奴隷として朝貢された。これは一部であるが、その一部でさえ事実として日蓮註画賛にも記されている。

去文永十一年(太歳甲戊)十月に、蒙古国より筑紫に寄せて有しに、対馬の者かためて有し。総馬尉(そうまじょう)等、逃ければ、百姓等は男をば或は殺し或は生取(いけどり)にし、女をば或は取集(とりあつめ)て、手をとをして船に結付(むすびつけ)、或は生取にす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又如是(またかくのごとし)。
按(あんずるに)索(さく=ひも)を以て手頭と手頭とを連結したるに非ずして、女虜の手掌(たなごころ)を穿傷(せんしょう)し、索を貫き舷瑞(ふなべりはた)に結着したるを謂(い)ふなり。日本書紀天智帝二年紀に、(百済王豊璋嫌福信有謀反心、以革穿掌而縛(かわうがちたなごころしばる)、)とあり、以て證すべし


朝鮮人の憂鬱と日本人の憂鬱


では、倭寇はどうであったのだろうか。倭寇とは、中世の東アジアで活動した海賊である。倭寇は、名称から日本人の海賊と喧伝されているが、実際には倭寇の構成は朝鮮人が殆どであった。“世宗実録”では倭寇の中で日本人は1割から2割程度に過ぎず、残りは日本人を騙っている朝鮮人や中国人だったと記されている。


そして、済州島における韓国による大虐殺も決して忘れてはならない。


朝鮮に踏みにじられる済州島


更には、ベトナム戦争時の韓国軍によるベトナム大虐殺も思い出して欲しい。
文献の中には韓国軍が1万人以上の婦女子を暴行したとの記述もあるが、少なくとも五千人以上の民間人を虐殺しているのは事実だ。だが、これは良識有るベトナム政府による現在判明している総数であり、ある地域ではベトナム政府が公式に出した総数の二倍以上の数を算出した村もあった。
では、その惨状はどのようなものだったのか。ある村の話では、村人に対し解放軍と詐称して一箇所に集め虐殺した。子供の頭を勝ち割り首をはね、四肢を切り火あぶりにして食べた。妊婦を強姦した後に殺し、その腹を胎児が出るまで踏み続けた等々、ここでも軍規を重んじた大日本帝国皇軍とは対照的な、中華の全時代的な常識を振舞う韓国軍の悪行が明るみに出ている。


そして、近年では韓国による竹島の軍事占領が今も続いている。国際的に認められていない一方的な李承晩ラインにより、罪もない日本漁船が数多く銃撃・拿捕された。328隻が拿捕され、凡そ4000人が拉致抑留され、44人が死傷した。


竹島サロン


歴史は勝者による改竄によって生まれるというが、それでも真実は秘められている。日本は歴史検証にあたって、何故に勝者でもない中韓の持論を尊重しなければならないのか。「韓国は残虐な侵略を行ってきた。対照的に、日本の朝鮮政策は朝鮮人による日本侵略よりはずっと和を尊んだ政策であった。」と何故素直に言えないのか。真実を言う行為が罪なのか?では、日本に救いはあるのであろうか。では、真実が日の目を見る日は来るのであろうか。そういった日本人の配慮を正当化行為として弾劾するのであれば、力が正義と言うのであれば、日本は躊躇なく朝鮮を侵略し朝鮮人を虐殺した事であろう。それが出来なかったから今の日本があり、和を尊ぶ独自の文化が花開いたのだ。中韓の歴史歪曲に屈するは、即ち正義と真実と和が滅びることに直結する。
日本人よ、真実を伝えるにあたって躊躇してはならない。躊躇する行為が、彼らを正当化させ、悪を蔓延らせるのだ。


NAYUKI第二話中世編