大東亜戦争における日中関係と虐殺事件

大日本帝国皇軍


歴史認識は勝者によって捻じ曲げられる。例え敗者が正義だとしても・・・例え勝者が極悪人だとしても・・・。何故、民衆は勝者の歴史に疑問を持たないのか。何故、自身で真実を確かめようとしないのか。ましてや、中国は勝者ではない。


今日は、大東亜戦争までの日中関係とそれに伴う日中紛争について検証してみたい。主に日本側の見地から語っているので、既成事実と違うとか歴史教科書と違うという愚答は控えてもらいたい。既成事実や教科書が、これら証拠に対して完全に論破出来ないからだ。客観的に分析しても、これから取り上げる事実の方が筋が通っている。
歴史を冷静に分析してみると発端は常に中国側からであり、常に日本に姑息な罠を仕掛けているとの事実が分かってくる。驚くことに、現代の日中関係となんら変わっていない。覇権を狙う中国、それに翻弄される日本・・・。
では最初に、シナ事変の発端になった盧溝橋事件について検証してみたい。当時、若い初年兵だった方の証言では中国軍が日本軍の演習中に攻撃してきたとの事だ。さて、軽装備の訓練兵が地元の地理に慣れている大勢の中国軍に攻撃を仕掛けられるのか。しかも、入隊2〜3ヶ月の軍事経験の無い初年兵ばかりである。当時世界一厳しい軍規を律儀に守っていた日本軍が、果たしてその様に安直な行動を行えたのか。

 一文字山の星空 この地で盧溝橋事件となり戦いが始まる
静かな 北支の平野に 考えても居ない事変が起きてしまったのか 世界の人民は日本の侵略と簡単に固ずけ(原文まま) 支那は日本軍の不法を唱え 私達支那駐屯軍の初年兵は始めての夜間演習を大変な又興味深くしかも厳しい演習だと考え全兵隊ははりきって行動したのだった 攻撃目標は一文字山である 開始の合図 ok の合図 戦闘開始である この時 後ろから はつきり 言うと 支那軍方面 永定川の方か竜王廟かの兎に角後方から 発砲して来たのである 指揮する清水節郎大尉中隊長以下兵隊は 驚く事明白であった
その 状況を見て全てを知って居るのは 一文字山の平野を輝く大空の大星軍と 一文字山に 立っていた 仮せ敵である
馬に乗り豊台の本部に伝令が走り 一木大隊長が 現場に着き 牟田口連隊長も着て会議があり 苑平県城の二十九軍 宋鉄元将軍との話し合いが行われた 城の石垣をよじ登り城に入り話し合った 牟田口連隊長は丸く治めて日本の駐屯軍の平和を願い再度白旗をかざして城に向かい石垣を登り話合いしたが 駄目であった 交渉に当たった人は 二十九軍とは親交の深い人物であったらしい

私達初年兵は 牟田口連隊長の所から数人の兵隊に守られて城に向かって行く情景をはっきりと固唾をのんで見守っていた しかし 決裂 野地少尉の 戦闘隊形をとれ支那軍から発砲して来た 

一文字山の青空より


そして済南事件と通州事件も忘れてはならない。私も何度も取り上げているが、これらは歴史から葬り去られた許されざる在留邦人陵辱大虐殺事件だ。
当時の日本人は国際法に乗っ取って合法的に在留していた(近年までの香港やマカオと同じだ)。しかし、中国の治安状況は頗る悪く武器を持ってして在留邦人を守らなければ瞬く間に匪賊の餌食にされる様な状況だった。


済南事件は昭和3年5月山東省済南で起こった邦人虐殺事件だ。これは、日本軍が中国軍(国民革命軍・南軍)を信用して軍を引き上げた直後に起きた事件で(軍を引き上げた理由は、中国軍が日本人居留民の安全確保を約束したから)、日本人居留民12人が見るも無残な虐殺をされた。ここで述べるのも憚られるが、通州事件にも通じる中国の伝統が行われた。陰部への異物突き刺し、眼球の切除、内臓の取り出し、全皮膚の剥離、四肢の切断・・・これらはごく一部だが兎に角、彼らは相手が生きたままこれら残虐的行為を行った。
これら死体を発見するに当たり、日本人が憤怒しないわけが無い。日本軍は早速、中国軍に事件に深く関与した疑いの有る中国武官の処罰と中国軍の撤退と反日プロパガンダの停止を求めた。しかし、現在と同じく中国は突っぱねた。この不誠実な対応に対し日本人が引き下がる事は、正義が負けるとの事を意味していた。日本軍は報復として中国軍の駐屯する済南城を攻略し占拠した。当時、済南にいた中国軍は総数10万人以上。方や日本守備隊は3千500人程度。中国は、これを機に山東省の完全制圧を企んでいたのだろう。しかし、近代化の進んだ日本軍相手に、前時代的な烏合の衆が集まったところで敵わなかったとの事だろうか。


次は通州事件だが、この経緯も済南事件と共通している。通州事件は昭和12年7月に起こった大虐殺事件だ。この事件に関しては当時の冀東政府が正式に日本に謝罪し賠償金を払っている。

孫・・・通州事件って何ですか。
私・・・通州事件というのはね、蘆溝橋事件から三週間後の七月二十九日に、北京の近くの通州で起きた中国兵による大規模な日本人虐殺事件で、二百数十名の日本の子女達が、見るも無残に虐殺された事件だよ。

孫・・・へー、そんなことがあったんですか、そこに日本軍は居なかったんですか。

私・・・居たことはいたんだ。しかし偶々守備隊の大部分が別の場所へ戦闘に行っていて、通州にはごく僅かの留守部隊しか残っていなかった。通州には親日的な殷汝耕氏を委員長とする自治委員会が昭和十年十一月から出来ていて、中国の保安隊も形の上ではその隷下にあったわけだから、日本軍も或る程度安心していたのではないかな。それが日本軍の手薄を知って突然寝返ったわけだ。

孫・・・飼い犬に手を咬まれたというところですね。

私・・・飼い犬とまでは行かなかったかも知れないが、とに角多勢に無勢、日本軍は死力を尽して戦ったものの、それ以上は何も出来なかった。その間に殷汝耕氏は拉致されるは、日本の子女達は虐殺されるは・・・・で、大変なことになってしまったわけだ。

孫・・・虐殺って、どんなことをしたんですか。

私・・・うん、あんまり凄いんで、言うのも憚られるんだがね。女という女は全部裸にされて辱しめを受け、その上、局所を切り取られたり、箒を押し込まれたりしていたそうだ。そのほか鼻に牛のように針金を通された子供や、目玉をくり抜かれた人など、見るも無修な情況だったようだ。

孫・・・よくそんなことが出来ますね。

私・・・中国兵には時々、そういう猟奇的な殺人が集団的に見られるようだね。日本の兵隊はそういう殺し方はまずしない。一刀両断バサッと斬るとか、銃剣で一突きで殺すとか、ホラ、テレビで見る昔の戦争のやり方さ(注:日本人は相手を苦しませない様に殺す)。そのへんが国民性の違いかも知れないがね。とに角ひどい殺され方をしたわけさ。

孫・・・そんなひどい殺され方をして、日本は怒ったでしょうね。

私・・・そうだよ。日本の世論は轟々として悪逆無道の中国討つべしという声が高かった。しかし、それでも日本はまだ不拡大方針を変えなかった。そこへ今度は、上海で大山海軍中尉らが虐殺されるという事件が八月九日に起き、それをきっかけとして八月十三日、遂に上海事変が勃発した。中国は全国総動員令を下して日本と全面的に戦う姿勢を示し、日本もやむを得ずこれに呼応して戦うことになったのだよ。

孫・・・そしてどんどん戦線が拡張して行ったのですね。

私・・・当時蒋介石政権の首都は南京にあった。だから南京さえ落せば、戦争は終ると考えていた日本人も随分居たと思うね。しかし蒋介石の国民政府は、南京が陥落する前に主だった人達は皆南京を放棄し、首都を重慶に移して徹底抗戦を唱えた。

孫たちとの会話より


それ以外では、時代が遡るが甘港事件も忘れてはならない。シベリア出兵中の大正9年に起きた大虐殺事件だ。この時は、ロシアと中国の共産党パルチザンが捕虜になった邦人民間人を含め700名以上を虐殺した。この事件によって日本の世論は騒然とし、日本軍シベリア出兵延長の原動力となった。
時代は進むが、ソビエトによる日ソ中立条約を破っての不法な満州侵略による邦人婦女子暴行や虐殺、それに伴い共産党に扇動された中国人による邦人虐殺も忘れてはならない(余談だが当時の満州国は五族共和が現実化し、目覚しい発展を遂げていた。匪賊と混乱が蔓延する中国から満州に逃れてきた一般の中国人は、大陸に平和と繁栄を齎した日本人に感謝していた。だからこそ、残留孤児が生活できた)。


通州事件は中国征伐も已むなしとの国民世論を日本に生ませ、シナ事変の原動力となった。済南事件も通州事件も、無防備と中国人に対する信頼が生んだ悲劇だ。当時の日本国民は無防備の儚さ、中国の信頼性のなさを痛感したことだろう。そして、中国において日本軍の快進撃が始まる。これは、中国民衆の援助無しには成しえなかった快挙だった。匪賊として残虐行為を同胞にも臆面も無く行っていた中国軍と、天皇と国民と武士道の名を汚さぬように皇軍として軍規を尊んでいた人道的日本軍。日本軍が中国民衆に歓迎されたのは言うまでも無い。国民党軍も共産党軍も敗退を余儀なくされたのは、日本軍の力ではない。中国人民の願いの力だった。私は今思う。日本が当時、アメリカやソビエトと対峙しなければ中国は日本によって新たな国にされていただろうと。それは、中国の過去の歴史が示している。中国は常に外圧(異民族)によって新しい息吹を得ている。


これらを鑑みるにあたって、偽りの南京大虐殺は許されるのか。中国は今、自国の悪行は隠蔽し、それだけでは飽き足らず更に新しい虚構の虐殺を生み出している。それが旅順大虐殺だ。南京事件と同じく虚構は更に塗り固められ被害者数は万単位で増えている。日清戦争当時、清が難攻不落と豪語していた旅順要塞を日本軍は僅か一日で陥落させた。その直後に起きた事件と中国は恥ずかしげもなく喧伝している。当時の日本軍は既に近代的軍隊として確立されており(だからこそ、一日で陥落出来たのだが)国際法も遵守しており法学者や医者を連れ立って軍事行動を行っていた。捕虜を手厚く看病する行為は和を尊ぶ日本人として当然の事でもあったが、捕虜を人道的に扱う行為は欧米へのアピールとして絶対に必要な事でもあったからだ。当時、有色人種の国家として唯一躍進していた日本は欧米と同等の文明国家だとのイメージを国際的に確立する必要があった。方や清軍は、前時代的な発想しか持っていなかった。清軍に捕まった日本兵への扱いは想像を絶するものだった。今まで述べた虐殺行為が捕虜にも行われていた。現代の中国当局の発想はこうだ。「当時の中国軍は勝っていたらこういった事をヤッテいたのだから、日本軍もヤッタ筈だ。当然の事だ。当然の事だから今の人民も信じるだろう」と・・・。
日本軍の戦術として捏造されている「三光作戦」即ち、焼き尽くす、殺し尽くす、奪い尽くすは日本の伝統にはないし、日本人に発想できる作戦ではないが、中国軍であれば、当たり前の作戦だった。蒋介石軍は焦土作戦、即ち三光作戦により町や村を消滅させながら退却して行った。河南省では黄河堤防を爆破させ下流の住人10万人以上を死なせ、長沙の町を焼き払い3万人もの人々を焼死させた。他にも多くの町々で掠奪放火強姦を行い、結果として蒋介石は実に30万人以上の同胞を虐殺した。
その後に日本軍がやってくるのだが、日本軍は焼け出された村人に食料を与え、医師をあてがい解放軍として歓迎されていた。


日本軍による残虐行為の写真とされるものは全て日本軍ではない(合法的な処罰を除く)。731部隊の残虐生体実験の証拠と喧伝される写真は、中国軍によって虐殺された日本人を日本人軍医が検死している写真だ。
こういった話は全く持って楽しくないが、だからといって平和な日常に眼を向け、現実を見たくない聞きたくないでは時代が繰り返されるだけだ。無防備宣言がその真骨頂だろう。「日本は侵略者。中国は被害者。」「アメリカは正義、ナチスは悪」では戦争はなくならない。戦争とは、あらゆる方面から分析しなければならない。今日はあえて、この歴史問題について深く検証してみた。
罪深き南京大虐殺捏造 - ドイツとメランコリー
東京裁判が生んだ「南京大虐殺」の虚構

中国国防費14・7%増 「脅威論」に拍車も
AOLニュース
 【北京4日共同】中国で5日開幕する全国人民代表大会全人代=国会)の姜恩柱スポークスマンは4日記者会見し、国務院(政府)が全人代に提案する2006年度予算案の国防費が前年度実績比14・7%増の約2838億元(約4兆1000億円)に上ることを明らかにした。1989年から18年連続で2けたの伸び率となり、日米などで強まる「中国脅威論」に拍車を掛けそうだ。

 姜スポークスマンは国防費増加の理由として(1)兵士の待遇改善(2)国際石油価格の上昇(3)装備近代化−などを挙げた。台湾独立阻止や積極的な海洋進出をにらんだ潜水艦、戦闘機などの装備強化も背景にあるとみられる。

 米国防総省は昨年7月の年次報告書で中国の国防費を発表分の「2−3倍」と推定。実際の国防費は倍以上との見方が専門家の間では支配的だ。

国防費とはおこがましい。侵略費が適当だろう。中国の覇権主義は現実的に脅威なのだが、中国は今日述べた過去の大虐殺を今の日本でも行いたいのだろうか。そして中国や北朝鮮だけではなく、中華帝国尖兵である韓国の動向も気にかけなければならないだろう。


真偽入り混じる虐殺画像
衝撃的写真で反戦を煽るのは簡単だが、問題は誰が虐殺したかだ。そして、殺されたものが誰であるのか、更には死因が何なのかだ。歴史的事件と、刑事事件は同じだ。何故、歴史的事件だけ証拠ではなく感情や証言を信じるのか。