新年の誓い

靖国神社


年末年始は殊更、自身を日本人として実感せずにはいられない。ドイツでの年末年始を一言で例えるなら“騒々しい”。クリスマス後から、正月三が日までは確実に爆竹や花火が鳴り響く。そこには、日本で感じる侘びも寂びも無い。ディスコで夜を明かし、花火で夜を明かすのも良いが、ドイツ人に“行く年”を鑑みる時間はあるのだろうか・・・自身の行いを、思い出を、鑑みる時はあるのだろうか・・・。ドイツ人の所業は、まるで過去の悪行も善行も喜劇も惨劇も、このドンチャン騒ぎで雲散霧消したいばかりだ。とは雖も年末年始の盛大さは、他の諸外国も同じだろう。


何も祖国を贔屓目に見たくは無いが、この時ばかりは感じずにはいられない。年末年始に禊を求める日本人と、誤魔化しを求める他国人。日本人は静かに現実を直視し、他国人は現実逃避する。日本人は自身の行いを悔い改め、他国人は自身の行いを無かったかの様にする。この違いは、それぞれの国史につながっているのではないだろうか。それは、近年の日本と欧米における植民地政策でも現れているし、身近なところでは日本人による配慮や謙遜にもあらわれている。だからこそ、より一層、私は、年末年始で他国人との間に埋められようの無い思想ギャップを感じて仕方が無い。
自分だけが変なのだろうか。それとも、日本人だけが変なのだろうか。もしくは他国人が変なのか。そもそも全て変なのか、まともなのか。


心に渦巻く葛藤を抑えつつ、隣国はどうかとふと考えた。中国人は欧米人と同じく爆竹を鳴らし騒々しく新年を迎えており、日本人的思想概念とは異なるようだ。では、韓国人はどうだろうか?


まず、韓国にも除夜の鐘がある。日本と違う点は33回しか鳴らさない。韓国内でキリスト教徒と仏教徒の割合が25%前後と拮抗しているにも拘わらず、除夜の鐘があるのは日韓併合時代に齎された名残だ。仏教徒李氏朝鮮時代まで弾圧され寺院は破壊され廃墟と化し、僧侶は最下層に貶められ迫害されていた。彼らを救い仏教を復興させたのは、紛れも無く大日本帝国であった。だが、流石は反日国家であろう。その除夜の鐘も、今では抗日の武器として改竄され、鐘の音も108回ではなく33回となっている。これは3・1独立運動の民族指導者が33人だったことに由来する。反日の為なら、煩悩の数さえ減らす韓国人の逞しさを、日本人は学ぶべきだろうか。
韓国において日本と似通っている点は、除夜の鐘以外に初日の出参拝と雑煮(これらも日韓併合時代の影響だが)が挙げられ、中国と似通っている点は旧正月での祝いや先祖供養が挙げられ、世界と似通っている点は盛大な花火が挙げられる。
神道を忌み嫌う韓国において神社は無論、寺への初詣も無い。年末年始でも“恨”の思想と、“小中華思想”と“事大主義”と“日本への嫉妬と憧れ”が複雑に交錯する韓国。これら事象からも、現代韓国人におけるアイディンティティーの葛藤が垣間見られる。
だが、日本人の私も、韓国人を哀れんでばかりはいられない。彼らが自民族のアイディンティティー欠如に失望するのであれば、日本人の私は日本独特のアイディンティティーに悩まされる。


この広いようで狭い世界で、私の心に共感出来る人間は、一握りの日本人だけなのだろうか。天は何故、孤高の日本を作ったのであろうか。全てにおいて特異な日本人は、何処に向かうのであろうか、そして私も。私は日本人的精神を捨てて、他国人に同化すべきだろうか。それとも、最後まで固持し、世界に自身の思い、和の思想を伝えるべきだろうか。
今更、言うまでもない・・・結論はただ一つ。例え迫害されようが、私は後者を選ぶ。心の赴くままに、この素晴らしき和の思想精神を世界に伝えていきたい。図らずも、これが私の新年の抱負だ。
とは雖も、ノンポリが羨ましい今日この頃ではある・・・。


お正月の風景1.世界のカレンダー