ドイツにおける領土問題

mensch2007-01-11


日本では周辺諸国との領土問題が頻繁に取り上げられているが、ドイツはどうなのだろうか。今日はドイツにおける領土問題、その中でもより複雑なポーランドに代表される東欧との関係について考えてみた。


ドイツでも領土問題は燻り続けており、昨今ではポーランドとの間で険悪なムードが流れている。
領土問題と一括りにしても、その要因は様々だ。原住者と移住者間の軋轢、戦争による領土拡張縮小、宗主国や支配国による強制移住、先住民の居ない新天地での各国各民族移住者間の軋轢。ドイツの場合は複雑で、これら全てが合い重なった状態といっても過言ではない。


ドイツ民族による東欧移住の歴史は古く、東フランク王国の成立に端を発する。フランク王国は異なる民族の共同体であったが、東フランク王国の成立は国民に始めてドイツ語という同一言語を話す民族共同体との概念を植えつけた。その後、東フランク王国神聖ローマ帝国となったが、有名なカノッサの屈辱により皇帝権力は弱まった。更に、十字軍遠征でのヘールシルト制度導入で、下級騎士の力が強まり集権国家への道は完全に閉ざされた。これによって、ドイツは分権封建国家へと変貌していく。


12世紀に入り完全な封建国家態勢になると、封建領主やドイツ騎士修道会ハンザ同盟等の様々な集団が隆盛を極め、人口も増大し豊かになった。
結果として、ドイツ民族は新天地を求め東欧に入植するようになる。無論、強力な国家という後ろ盾を持たないドイツ民族は、細心の注意を払い先住者の極力少ない地域に入植していった為、ジーベンビュルゲン等の飛び地も点在するようになった。このような経緯からも分かるように、先住民を犬畜生として扱ったロシアの東方拡大よりも平和裏に入植が行われており、先住者との軋轢は皆無に近かった。
ズデーテンを例に取ると、ナチスドイツ統治前の民族割合は、ドイツ系400万人に対し、チェコ系は40万人とその差は歴然としており、チェコスロバキア全体でも凡そ四分の一がドイツ民族であり、東プロイセンやシュレジエンでのドイツ民族の割合も9割を超えていた。


上記流れによって生まれた土地、ポンメルン(ポメラニア)・プロイセン(プロシア)・シュレジエン(シレジア)・ベーメン(ボヘミア)・ズデーテン・ジーベンビュルゲン (トランシルバニア)は、第一次・第二次世界大戦でのドイツ敗北によって、大部分が他国(ロシア、ポーランドチェコルーマニアハンガリー)の領土となり、ドイツ民族は居住地の実に四分の一を失った。前述した地域一帯はドイツ人が住人の大半を占めていた為に表立ってはいるが、諸都市ともなると、ラトビアのリガやエストニアのタリン等、ドイツ系は東欧各地に展開しており枚挙に遑が無い。
ちなみに、ベーメン(ボヘミア)入植ドイツ民族は15世紀に追放されるが、他地域は第一次世界大戦まで約700年間ドイツ(国家・民族)オーストリア国家の領有もしくは居住地域であった。


第二次世界大戦におけるドイツ敗北により、ドイツに逃れた東欧植民系ドイツ人は1,500万人にも上り、この過程で1割以上もの人々が命を絶ったとされる。ポーランドにいたっては、ドイツ敗戦後、ドイツ人120万人が虐殺された。
ドイツ人が去った土地には、支配国の人々が新たに入植し、今ではドイツの面影も建物以外殆ど無い。


1990年に統一ドイツは国家としてポーランドとのオーデル・ナイセ線を正式に認め、表向きは領土問題が終焉したことになっている。
だが、民間では終わっていない。元プロイセン住民が、ポーランドを相手取り度々訴訟を繰り返しているからだ。また、そうではないドイツ人においても、プロイセン地方は統一ドイツの原型で、言わば民族の誇りでもあり、実際には複雑な心境を抱き、同情している。


ナチスドイツが躍進した理由は何だったのだろうか?何故、ナチスドイツは戦線を拡大したのか?
それは、第一次世界大戦で失った土地で圧政に喘いでいたドイツ民族救済の意味合いもあった。第二次世界大戦前のポーランド国内やソビエト内でのドイツ民族への扱いはどうであったのだろうか?戦中のソビエトにおけるヴォルガドイツ人の強制移住、強制労働、戦後の東欧各国にいるドイツ難民への容赦ない虐殺行為は許されるのであろうか。スラブ系とゲルマン系の民族的特長、東欧西欧の文化水準相違、共産国家の残虐性はどうだったのか。
こういった背景を調べない限り、戦争も無くならない。歴史は、無知と勝者による善悪の勝手な定義付けによって決められているようにも思える。
現代ドイツ人はナチスに全て罪をかぶせているが、東欧植民ドイツ難民の殆どはナチスではなく一介の人々であった。では何故、数百万人ものドイツ民族が虐殺されなければ為らなかったのだろうか。


悪行は悪行として裁かれなければならない。それでも、ドイツ人はポーランドに補償を求めても土地を返せとまでは言っていない。だが少なくとも、民間訴訟に関して日本人はドイツ人を見習う必要がある。被害者面をするポーランド中韓も、同じ穴の狢との事に気付くだろう。


ドイツ人がポーランド提訴 強制移住の補償求めasahi.com

2006年12月17日13時20分
 第2次大戦末期から終戦後に強制移住させられたドイツ人らが、ポーランド政府を相手取り、財産返還などを求める訴えを欧州人権裁判所(仏ストラスブール)に起こしたことが15日、明らかになった。ナチス・ドイツの侵攻により多大な犠牲者が出たポーランド側は強く反発している。
 DPA通信などによると、訴えを起こしたのは約50人のドイツ人。強制移住者らでつくる団体「プロイセン信託基金」が訴訟を支援している。強制移住時に住んでいた土地の所有権の返還や失われた財産の補償などを求めている。原告の人数は今後増える見込みだ。
 これに対し、ポーランドカチンスキ大統領は15日、訪問先のブリュッセルで「2国関係を悪化させる脅威だ。訴えが退けられることを望む」と述べた。
 この問題で、独政府は「問題は解決済み」の立場を取っており、メルケル首相も賠償請求を支持しないと言明している。

ポーランドの運命

8 「代償」としてのオーデル・ナイセ線とその最終確定
 南部の「代償」については未確定だったが、1945年7月のポツダム会談でオーデル川と西ナイセ川を結ぶ線(一般的にはオーデル・ナイセ線)で決着した。
 旧ドイツ領に住んでいたドイツ人は、反ナチスであろうと女性、子どもであろうとポーランド人の復讐の対象となり、900万人のうち120万人が殺されたと言われている。
 西ドイツ政府は「国境の討議が出来るのは統一ドイツ政府のみである」との立場からその承認を拒み、東ドイツを中部ドイツ(Mittel Deutschland)と呼ぶこともあるなど、旧領土回復への潜在的要求は強かった。しかし統一をめぐる2+4協議の中で、オーデル・ナイセ線が最終的に統一ドイツ、ポーランド国境として確定した。
 
  9 加害者としてのポーランド人と教科書の共同研究〜2001年夏の新聞記事から自らをもっぱらナチスの被害者と考えるポーランド人の間で、加害責任が話題にのぼることはほとんどなかった。しかし2001年夏、新聞に注目すべき記事が載った。
 ポーランド東北部、旧ソ連占領地区のイェドワブネ村で独ソ戦開始直後の1941年7月10日、村に住むユダヤ人1,600人が殺され財産が略奪された。昨年在米ポーランド人学者が著書で事件がドイツ人ではなく、ポーランド人によるものであることを明らかにした。事件から60年目の今年、大統領も出席して慰霊式典が行われた。しかし一部の元村民やユダヤ人は反発している。(5月28日,7月11日付読売新聞、5月29日付中国新聞
 7月26日の朝日新聞には、ポーランドとドイツによる教科書の共同研究に関する記事が載った。この中で例えば前項目で触れた旧ドイツ領から引き上げるドイツ人に関する表現をめぐって、「移送」ととらえるポーランド側と「追放」ととらえるドイツ側との間で議論がなされ、合意が成立したことなどが紹介されている。
 日本の新しい教科書が国際的にも議論を呼んだが、いわゆる教科書問題の根本的解決には、このように他国との共同研究を通じて歴史認識の(共有は困難としても)共通理解を図ることが最善ではないだろうか。