封建制度(Feudalismus)と集団主義


日本とドイツの大国化は共に後発的だが、両国は米中露や英仏露という近隣強国の脅威にさらされながらも、果敢に挑み巧みに独自性を保ってきた。
私見ながら再三述べているが、日独の共通性として日本の“和の精神”ドイツの“Ordnung”に集約される集団主義が挙げられる。
では何故、日独でこれだけ集団主義が繁栄を極めたのか。歴史を紐解いてみると、原因が分かってくる。
それが今回取り上げる封建制度*1だが、他国に比べて日独の封建時代はずば抜けて長い。更に、両国は絶対王政を経験していない。絶対王政の定義には異論があるが、中央集権を経ずに近代国家、もしくは現代に至っている。


ドイツの封建制は古く、紀元前の古代ゲルマン時代まで遡る。最初に記述されたのがユリウス・カエサル著の“ガリア戦記”だが、首長と自由身分の従士との契約関係が描写されている。これは従士制(Geforgschaft)とされているが、ナチスもまた従士制を取り入れていた。


神聖ローマ帝国の権限の弱さと長期に渡る支配からも、中世ドイツにおける封建期間の長さが分かる。
帝国の封建制は、1122年の叙任権論争(Investiturstreit)で強められ、1648年のウェストファリア講和により帝国の権限は一層弱まった。19世紀初頭のナポレオンのライン同盟(Rheinbund)による帝国崩壊までを封建時代と定義すると、ドイツの封建時代は非常に長い。


プロイセンは東欧の農奴制及び、西欧の絶対王政をバランス良く兼ね備えていた国家であり、ドイツ統一の中心的立場であったが、1867年結成の北ドイツ連邦1871年成立のドイツ帝国はいずれも連邦制であり、プロイセンに絶対的権力は無かった。
日本にしても、大日本帝国時代の初期は薩長の有力者が、後期は軍部が政権を握っており、絶対王政を経験していない。また、日本の封建時代を1192年の鎌倉時代からと定義し、1867年の大政奉還までとするならば、封建制度の期間がドイツと符合する。


封建制度は近代化の過渡期として前近代的制度と思われがちだが、現代の日独の繁栄を鑑みるにあたり、疑問を感じる。
絶対権力が存在しない国家で、民度の低い社会であれば無法化するだけだ。絶対的中央集権国家が崩れた時の惨状は、隣国中国の歴史やフランス革命を見れば良く分かる。
対照的に、日独は違っていた。どちらが先かは分からないが、絶対権力が存在しない故に、個々の人々は個々で制定した道徳概念を守り信頼関係を築いていた。むしろ、日独の人々にとって絶対的権力や奴隷や血の繋がりは必要のない代物だったのかもしれない。
こういった個々の他人同士の信頼関係を築けない民族からは、封建制度が生まれる事も無く、仮に他国を真似て封建制度を確立したとしても、長続きしない。


現代の日独は封建遺制国家といえる。ドイツの契約社会やマイスター制度、日本の村社会や職人制度が良い例だろう。
残虐な中華的中央集権国家、無秩序なアメリカ的自由主義国家は理想なのだろうか。対照的に、封建制度は、人的結合を潤滑に保つ理想的国家体制の一つと思われる。
今こそ、日独の誇るべき伝統を世界に広めるときではないだろうか。

*1:封建制度
封建制との表現は、古代中国の周による国家運営から由来しているが、周の封建制度は中央集権的な血縁による地方派遣であり、血の繋がっていない者同士の契約からなる日本や欧州とは全く異なる。実際には日本や欧州は、主従契約制度・信用契約制度との表現が正しい。