関東大震災の真実


日教組教研、朝鮮人虐殺で根拠ない「6600人」産経新聞 2010/01/24

山形県で行われている日教組の教育研究全国集会で24日、関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺について、犠牲者数「約6600人」を前提として中学生に教える授業実践が報告された。犠牲者数をめぐっては、当時の朝鮮人の人口などから数千人以上に上ることはあり得ないと指摘されている。しかし、多くの教科書には「6000人以上」などとする記述が残り、学校では相変わらず、日本を誇大に悪く描く歴史授業がまかり通っている実態が浮かび上がった。(鵜野光博)


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関東大震災における朝鮮人大虐殺事件の欺瞞について、自民族美化の観点としてではなく、矛盾点の多さから疑いの目を昔から持っていた。朝鮮人によるテロは本当に有ったのか、それとも単なるでっちあげだったのか。そもそも、大陸人とは異なる日本人の気質として、大虐殺は可能だったのか。
当事件への煩悶する思いを、この本が解消してくれた。
最近は真実といえども焼き増しの歴史評論本が多い中で、久々に新鮮味と爽快感を与えてくれた良書といえる。


ただ、本書で気になる点は、関東大震災時の朝鮮人テロにおける著者のロジックか。
本題に入る前に、少し考察してみたい。


1、朝鮮人の独立心、日本への恨みは強く、常に独立を目指す活動をしていた。
2、故に、関東大震災での朝鮮人によるテロも大規模かつ残忍だった。
3、故に、自警団が防衛した。


以上の流れがあるように思える。無論、著者は社会主義者のテロ行為も取り上げ、両者の協力関係や社会主義者からの支援無しでは不可能なことを述べているが、朝鮮独立派や上海仮政府の組織力やテロ行為、及び朝鮮人の独立心や日本への恨みを過大評価しているように思える。


本書では上海仮政府、即ち大韓民国偽臨時政府も紹介されているが、補足してみたい。
確かに、大韓民国偽臨時政府はテロリスト集団としてテロを敢行していた。しかしながら、内部抗争により社会主義者が脱退した20年代以降の活動は弱まっている。大韓民国偽臨時政府内で如何に社会主義者の力が強かったかが窺い知れる。


大韓民国偽臨時政府の発足は1919年の三・一運動が要因だが、政府として国際社会で認められることはなかった。
対日宣戦布告をしたとの事だが、日本政府に伝えたわけではない。更に、連合国側からも戦勝国と認められることはなかった。講和条約への署名も連合国側は同偽政府が日本と交戦したことはなく、政府と認めたこともないと拒否した。
例えるのであれば、日本が中国の自治区になった後、私がドイツで日本臨時政府の樹立及び中国への宣戦布告を当日記上で宣言するようなものといえば、分かりやすいだろうか。


本書では、関東大震災において、社会主義に感化された朝鮮人と一般朝鮮人の心情の乖離が紹介されている。


本書より

朝鮮全土の労働社団体系の感触は、すべて日本内地で同志による暴動から内乱へ、そして革命への道を望んでいる様子が報告されている。社会主義の極めて強い影響が及んでいたことの証明といえる。
九月六日から九日ごろまでには、内地における朝鮮人によるテロ情報が現地にも入ってきた。
放火、強盗、強姦、殺人、井戸への毒薬投入、爆弾投擲など、震災に乗じた強行行為の報せきを聞いた在鮮日本人たちは、当然激しい怒りを表した。これまで震災には快哉を叫んでいた一般の朝鮮人も、さすがに同胞の非人道的暴挙に対しては忸怩たる思いに変わり、世界各国からの避難を意思し始め、大勢に順応し罹災難民救済慰問金の募集に参加する者が増えたとも報告されている。
だが、過激な労働運動家の集団は全く違う驚くべき反応を見せた。


共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の損害より之に伴う火災の損害が甚大なる模様なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり。」我等は此の壮挙を喜び、時機を見て吾人も活動すべく期待し居りたる□[一字不明]厳戒令が布かれ遂に其の目的を達する能はざりしは遺憾なりと同志間にて語り合う者あり」


実際には、朝鮮人の独立心はそれほど芽生えておらず、独立よりも社会主義革命の方が優先事項だった。
日韓併合時代の朝鮮だけをみてしまうと、1919年の三・一運動と1929年の光州学生事件から朝鮮人の独立心が旺盛なように思えてしまうが、三・一運動はソビエト樹立に影響を受けた結果であり、光州学生事件では共産主義団体・新幹会が積極的に関与支援していた。
余談だが、三・一運動で主導的立場だった孫秉煕が、日韓併合工作に奔走していた一進会の創設者だったのは皮肉といえる。


二つの動乱は純粋な民族独立運動とはいえず、社会主義者無政府主義者共産主義者の支援や扇動無しには起こりえなかった。三・一運動と同時期に設立されたコミンテルン共産主義インターナショナル)は、1943年5月まで各国の共産主義者を取りまとめ世界に大きな影響を与えていた。故に、朝鮮における二つの運動を持って朝鮮人の独立心が高いと結論づけるのは危険といえる。
寧ろ、日韓併合35年の間で散発的なテロはあっても大規模な動乱が二回しか起きていないのは、日本の統治が優れていた為であり、朝鮮人の独立心が予想よりも芽生えなかった所為といえる。
当時、警察幹部の三分の一は朝鮮人であり、警察における日本人の割合は4割以下、日本人警察が民衆を押さえ込んでいたからとの言い訳も通用しない。
日韓併合時に韓国の人口が増大し、経済力が爆発的に成長したのは今更言うまでもない。


リンク:朝鮮半島において、日本人より偉かった朝鮮人


朝鮮における動乱は、日韓併合以前と日韓分裂以降の方が大規模で頻度も多い。
日韓併合時代の二つの動乱は、「社会主義革命をしたい。たまたま日本が統治しているから、日本を叩こう」との理由に過ぎない。

李氏朝鮮時代、王朝は党争に明け暮れていた。クーデターや暗殺は日常茶飯事で政治は麻痺し、民衆は極貧の生活を余儀なくされていた。故に、小規模な土一揆は初期から有ったが、最初の大規模な民乱として1559年から1562年まで続いた林巨正の乱があげられる。林巨正は盗賊の頭領として各地の白丁(朝鮮の奴隷階級)と合流し国内を荒らしまわり、首都も壊滅状態となり鎮圧後も国家機能が数年間麻痺した。
その後ニ百年間は、日本や清の侵攻を受け民乱どころではなかった。
外敵の脅威が無くなると、1811年に洪景来の乱が起こる。平安道人を採用しない王朝の政策に対し、平安道人の洪景来が流人や白丁を集め反旗を翻した。1年後、洪景来の戦死で乱は沈静化するが、朝鮮後期の不安定化を決定づける事件であり以降、壬戌民乱や東学党の乱に代表されるように民乱が絶えなくなる。民乱の世紀と呼ばれるほど、朝鮮半島は乱れた。


時は進み、大東亜戦争後、初の民乱として1948年におきた済州島四・三事件があげられる。南北統一を唱え民衆が蜂起したが、右翼団体や警察組織が民衆を大虐殺し1957年に鎮静化した。虐殺による死者は八万人を超すという。
ちなみに、この時に済州島から逃れてきた人々が、現在の在日朝鮮人の大勢を占めている。


戦後の韓国は、軍事政権による共産党弾圧とクーデターばかりだったが、李氏朝鮮時代の党争とクーデターの伝統を引き継いでいるに過ぎない。
1980年の民衆による民主化要求暴動、即ち光州事件では軍事政権の弾圧によって多くの死者を出した。


そして現在。歴代大統領の殆どが辞任後に逮捕され、日常茶飯事のように大規模なストライキやデモが起こっている韓国は、李氏朝鮮時代から何も進歩していないのだろうか。



動画:韓国のストライキやデモ


動画:「売春させろ」とデモを行う150万の韓国女性


朝鮮と同じく日本に併合された台湾も、民衆動乱が激減していた。


黄文雄氏著書「捏造された昭和史」より

「三年一小乱、五年一大乱」(三年に一度は小さな乱、五年に一度は大きな反乱)といわれるくらいだった。実際にはそれより多く、『清朝時代台湾録営』を見ると、二一三年間の清代に動乱は一五四回にものぼった。つまり一年半に一回の割合である。
これほど反乱が頻出していた台湾で、武力抵抗がなくなったというのは、時代の変化以外のなにものでもあるまい。


李氏朝鮮時代だけではなく、現在の韓国と比べてみても、日韓併合時代の韓国は極めて安定していたと結論できる。
独立派の動向よりも、社会主義者無政府主義者共産主義者による脅威の方が大きかった。彼らが朝鮮人の熱くなりやすい気質を利用し動乱やテロを起こしたと結論づけることも出来る。
1917年のソビエト樹立以来、社会主義者無政府主義者共産主義者のテロリスト組織は戦後の安保闘争期と同じくらい社会に影響力を持っており、日本人だけではなく多くの朝鮮人も感化されていた。


震災直後の9月2日に、在日朝鮮人の朴烈が爆弾で天皇陛下暗殺を計画したかどで逮捕されたが、彼は社会主義者に影響され、無政府主義団体・黒濤会を立ち上げていた。
彼の行動を朝鮮独立の為のテロと捉えるか、社会主義革命の為のテロと捉えるかで見解は大きく違ってくるが、彼の半生をみる限り後者の要因が大きい。


日韓併合時代の朝鮮が社会主義者無政府主義者共産主義者にとって格好の餌食だったことは疑いようがない。同時代の東欧を見ても分かるが、同じくソビエトの矛先にある朝鮮に火の粉が降らない方が異常といえる。
同時代のモンゴルは、1921年社会主義革命によって人民共和国となっている。中国や東欧が後の時代、赤化したのはソビエトの影響に他ならない。
ソビエトの隣にありながらも赤化しないで耐えられたのは、日本による善政のお陰といっても過言ではない。


日本による統治は「和」であり、新渡戸稲造も「植民地の目的は人類境遇の拡張と地球人化にある」と唱えていた。
この「和」が、関東大震災でも発揮され後に誤解を生むことになるのだが、これについては次回、詳しく紹介してみたい。


前述した朝鮮人による動乱の動機「社会主義革命をしたい。たまたま日本が統治しているから、日本を叩こう」と同じように、たまたま朝鮮がソビエトの隣にあった。だから朝鮮人は、たまたま社会主義者無政府主義者共産主義者の影響を強く受けた。だから関東大震災でテロを起こした社会主義者無政府主義者共産主義者に、たまたま朝鮮人が多かった。との結論も出せないだろうか。


本書では、日本が朝鮮人から恨まれた要因の一つとして乙未事変を持ち出している。事大党(清国やロシアに事大する党)を支持していた王妃・閔妃が殺害された事件だが、日本公使・三浦梧楼が首謀者との定説は証拠不十分なでっちあげである。
現場にいた王世子の純宗は、禹範善が殺害したと証言しており、禹範善本人も自分が殺したと証言している。禹範善は開化派(日本とともに清国へ対抗する党)の武官であり、実行犯一派には日本人が存在せず、首謀者も特定できていない。日本による介入との事件にして、国際的に批判を浴びせようとした事大党とロシアによる工作の可能性は否定できない。


著者は、日韓併合反対派の伊藤博文を暗殺した安重根を処刑したことにより、民族派を怒らせたと考えている。しかし、日本は強引に併合したわけではない。大韓帝国側の嘆願があったからこそ併合したのである。確かに民族派は怒ったのだろうが、大韓帝国内の親日派を勢いづかせたとの事実を省いてしまっては全容が分からなくなる。
日本としては、経済的にお荷物になるだけの大韓帝国と併合するメリットは何一つ無かった。大韓帝国には、日本の同盟国としてロシアや清国の干渉を退かせ自立した国家として成長して欲しかった。故に、日本は日清日露戦争を勝ち抜き大韓帝国を成立させたのだが、相変わらず党争と民乱に明け暮れる朝鮮人には国家運営能力は無かった。
結果として日韓併合となるが、これには一進会と開化派が大きな影響を与えている。


一進会李朝末期に結成された親日団体で、会員は100万人を超えていた。一進会による日韓併合嘆願デモは激しさを増し、隆熙皇帝へ日韓併合案の進言をし、隆熙皇帝に日韓併合を決意させた。その後、一進会日韓併合によって目的を達成し、解散した。
開化派は李氏朝鮮王朝内の党派だが、彼らは、親日・反露・反清を掲げており、親露・親清で事大派を支持していた王妃・閔妃を殺害したのも開化派一味だった。


長くなったので、続きは次週にしてみたい。