日本人とドイツ人の近似性

mensch2007-06-19



日本人とドイツ人の共通性とは何だろうか。だが実際には、森鴎外のドイツ見聞と現代ドイツを比べるにあたり、隔世の感を覚えるドイツ在住の日本人も多い事だろう。現代ドイツは、全てにおいて適当で、大都市の駅には麻薬中毒者やアルコール中毒者がたむろし、ゴミや落書きもそこかしこに見受けられる。仕事も手抜きばかり。はてさて、何処に日本人とドイツ人の共通性があるのだろうかと疑問に思われる方も多いと思われる。


確かに、日本人とドイツ人は違う。だが、世界を基準に見ると矢張り、両国民は互いに近似していると結論付ける他ない。
地理的にも歴史的にも両国家は相違しているが(列強入りの時期は同じくだが)、それをもって両国民の思想概念が相違すると早計する人もいるだろう。巷では、日本人は農耕民族であり、ドイツ人は狩猟民族だと信条の如く述べている方もいるが、実際に狩猟民族と呼べる存在は極北やアメリカや中央南部アフリカに点在する位だ。ドイツ人は日本人と同様、農耕民族であり、庶民が肉を食べるようになったのは、産業革命以降に過ぎず、遊牧はもとより放牧・牧畜民族とも言えない。
また、大陸的国民性と島国的国民性で相違を語るのも無理が有るのではないだろうか。島国根性とはよく言うが、世界をまたぐ大英帝国を築いたイングランドは閉鎖的で島国根性丸出しだったのだろうか。残虐性は皆無だったのだろうか。用心深く無かったのだろうか。


以上を踏まえた上で、本題に入りたい。
両国の共通項目の筆頭に挙げられる点は、公の概念だろうか。日本には“和の思想”があり、ドイツには“Ordnung(秩序)”がある。
鉄道には改札口が無く、全て個人の良心に任せられている(無論、ホームや車内での抜き打ち改札は有るが)。
誕生日や祝日などの特別な日を除いて、ドイツは夜に家で騒いではならない。自宅の庭も常に手入れをして綺麗にしないと、近所から苦情が来る事がある。特に集合住宅では顕著で、秩序を乱すものは現代においても、それこそ“村八分”になる。


欧米的個人主義とはよく耳にするが、少なくともドイツに限って言えば、個人主義よりも集団主義が重要視される。こういったものは、個々の公共概念が育っていない国家では成り立たない。ヒトラー全体主義も、ドイツ国民あってのものだったのだろう。何故、現代ドイツ人男性諸氏が、日本の侍に憧れるのか。何故、現代日本人男性諸氏が、第三帝国に慕情を寄せるのか。両者の思いも元を辿れば、こういった公の概念が齎す秩序と、それらが醸し出す洗練に魅了される部分も多い。これらを鑑みるにあたり、武士道も騎士道も、思想概念は同じなのだろう。
ちなみに、ドイツが生んだマルクス主義ナチスも当時では最も理想的な社会主義であり、皇帝と農奴だけのロシアよりもドイツ人の高度に熟成された民度に適った思想だった。余談だが、ソ連型の専制的で怠惰なだけのマルクス主義マルクス本人に、マルクス主義では無いと言わしめた。


海外において、日本人は自己主張が無いと言われがちだが、ドイツ人も似たようなものだ。これは、個よりも公、無秩序よりも秩序を大切にする国民だから当然とも言える。
ドイツ人は基本的にシャイだ。ディスコで女性に声をかけるのはラテン系を筆頭にドイツ人以外ばかりで、当のドイツ人男性と言えば、男同士でたむろっているだけとの事が多々ある。
イタリア人男性は女性に色目を使うのが当然の様に思っている節があるが、こういった概念はドイツ人男性には皆無だ。
また、ドイツ人は自己主張を育てる教育を受けていると誤解されがちだが、アメリカと違い、戦後の自虐思想も相まって、相手の気持ちを考える教育も加えられている。
故に授業でも会議でも、ドイツ人は他欧米人よりも人前で主張する行為を嫌がる。これには演説と独断を得意としたヒトラーに対する過剰反応も加わっているのだろう。


ドイツは訴訟社会と思われているようだが、実際は違う。多分、様々な法を制定し守るのが好きな国民性ゆえのイメージなのかもしれない。訴訟件数に関しては、アメリカは当然としてフランスよりも少ない。また、ドイツの訴訟は相手への賠償と言うよりも、国家に対する自身の利権要求が多い。即ち、不平等を解消するための訴訟だ。個人間に関しては当事者同士で解決する場合が多く、また秩序を尊重する国民性ゆえに事を荒立てるのが好きではない。供給元に対する寛容度に限って言えば、日本人の方が矮小と言える。仮に日本人がドイツに来たのなら、毎日クレームをしなければならないほど、ドイツ企業は好い加減だ。


言語表現も日本人と似ている。基本的な部分では豊富な敬語や、敬語による主語の変化も日独に共通する。
欧米人は謝罪をしないと思われがちだが、ドイツ人は日本人と同じく頻繁に謝る。ドイツ語には英語の「sorry」と同じように「Entschuldigen」との謝罪表現があるが、ドイツ人は日本語の「すみません」と同じようにこの言葉を多用する。例えば、道を聞くときも、英語であれば、「Excuse me」だが、ドイツ語は日本語と同じく、「すみません」だ。また、道を譲ってもらう時も、歩行中に人とあたったときも、「すみません」と言う。確かに英語の「sorry」も多くの語彙を含んでいるが、それもドイツ語や日本語の「すみません」と比べると語彙が非常に少なく、使用頻度も少ない。むしろ、日本語とドイツ語の共通したシチュエーションにおける使用に気付く。これら事象は「すみません」の存在意義を軽くしがちだが、コミュニケーションを円滑に保つとの点では非常に有益だ。
また、ドイツ語は英語と共通した言語から派生しているが、両者の概念的部分は必ずしも一致していない。
例えば、一番頻度の高い分かりやすい例として、「私は知らない」が挙げられる。
英語で言えば、「I don´t know」文法で直訳すれば、“私は”“無い”“知る”だが、ドイツ語は、「Ich weiss nicht」即ち、“私は”“知る”“無い”であり、文法的には英語よりも日本語に瓜二つだ。否定が最後に来る表現は両国民の性格を如実に顕している。動詞の位置変化は英語と異なり日本語と共通する。活用方法も日本語と同じだ。
最近のドイツの若者言葉に、「Jain」なる言葉がある。「“はい”でも“いいえ”でもない」日本語で造語すれば、「はいいえ」?もしくは「結構です」「検討します」(笑)だが、どうやら玉虫色を好む日本人的気質が、ドイツ人にも有るようだ。


愛想笑いも日本人特有の様に思われているが、ドイツ人も頻繁に活用する。ドイツ国内の店員で愛想笑いが出来るのはドイツ人位で、多くの移民店員は不仕付けで客に笑みを見せる義理など無いと言わんばかりだ。ドイツ人と日本人に共通する静かな笑みは、感情の起伏が激しい外国人には理解できない。この愛想の良さは、以下で述べる社交辞令にも通じるのかも知れない。


ラテン系の人々は社交辞令が苦手だ。例えば、ある人が「今度、暇な時に家に来てください。」と言ったとする。ラテン系の人であれば、これは本気だ。だが、ドイツ人は日本人と同じく社交辞令の場合がある。ドイツ人の言葉を信じ訪問して煙たがられるラテン系も多い。
この点ではアメリカにおける欧米系も同じだが、ドイツ人は差別心からではない。相手が誰であろうが余程親しくならない限り、自分のテリトリーに入って欲しくないと思うし、プライベートな話はしたくないと考えている。彼らは純粋に内気で真面目なのだ。シャイはシャイでも、違った方面に向かった人もいる。日本で言う頑固親父系の男性もドイツには多い。古き良き?時代の名残だろうか。


地理的には近くても、ラテン系民族とドイツ系民族は違う。同じように、漢民族朝鮮人と日本人も全く違う。地理的には遠くてもドイツ人と日本人は似ている。ボータレス化の今、日本人は近似した価値観を持つドイツと再び連携を保つべき時期に差しかかっているのではないだろうか。
ドイツ人も正義感が強く、日本人以上に頑固な面がある。日本人に足りない合理性及び、ドイツ人に足りない客観性、これらが日独で相互補助されれば、鬼に金棒ではないだろうか。


08年は日本が“パートナー国”に−ハノーバー・メッセ2007開催(2)− (ドイツ) 2007年5月2日JETRO

ドイツメッセは4月20日ハノーバー・メッセ2008(4月21〜25日)に、日本がパートナー国として参加することを正式に発表した。渡辺博道経済産業副大臣はこれを受けて、技術立国にふさわしいテーマで貢献するとの決意を表明した。