江戸時代と李氏朝鮮時代における民族気質

李氏朝鮮時代・南大門前の惨状

今、江戸時代が俄かに脚光を浴びつつある。2003年には江戸開府記念行事も開かれた。これにより、日本人特有の自虐史観が薄らぎつつある風潮は喜ばしい。方や、韓国は捏造に捏造を重ね、李氏朝鮮時代をまるで桃源郷の如く仕立て上げている。
見栄を張り外観だけを重んじる朝鮮人と、ワビやサビを重んじる日本人の民族気質が歴史解釈にも表れている。着物一つとっても、見えない裏地に意匠をこらす日本人を韓国人は理解できないのだから、歴史解釈に差があって当然とも言える(李氏朝鮮時代の朝鮮は、縫製技術も染色技術も日本の弥生時代並であったのだから然もありなん)。


江戸時代と李氏朝鮮時代、同じ時代でも実際には文化的経済的違いは甚だ大きい。これは現実として述べるが、全てにおいて江戸時代が李氏朝鮮時代よりも進んでいた。日本は豊臣秀吉の時代に既に朝鮮を遥かにしのぐ文明国家になっており、朝鮮進攻時では圧制により貧困を極めた朝鮮庶民より解放軍として迎えられた地域が多かった事実からも分かる。
そして江戸時代になり天下泰平の世が永きに渡ると、江戸の町は世界一の人口を有し数々の庶民文化が花開き、日本の文化水準はアジア一にまで登り詰める。浮世絵、園芸、落語、歌舞伎、相撲、寿司等々枚挙に暇がない。これら文化は過去のジャポニズムを出すまでもなく、今でも世界へ影響を与え続けている。


その頃、李氏朝鮮は仏教弾圧やハングル撲滅や両班の横暴や清朝からの搾取により、アジア一の極貧未開国家になっていた。現在、韓国が伝統文化と世界に喧伝している文化の大半は、日韓併合時代に日本よりもたらされた物しかない。
当時の朝鮮は、宗主国の清だけではなく、日本にも恭順の姿勢を表さなければならないほどだった。歴史の教科書にも出てくる朝鮮通信使は、実際には江戸幕府朝貢をしていたとの見解が正しい。現実的に江戸幕府は朝鮮に使節団を送っていないし、朝鮮通信使達は江戸城の公賓を招く正門からではなく使用人と同じように裏門からしか入ることを許されなかった。
これら扱いからも、当時の日朝の国力差が窺い知れる。
朝鮮は清朝から毎年、数千人規模の性奴隷や労働奴隷や金品等の朝貢を強制され、朝鮮の下層階級であり奴隷でもある白丁は朝鮮国内でアメリカのアフリカ系奴隷以下の扱いを受けていた。そんな朝鮮を中国の頸木から解放し、ロシアの恐怖から守り通した日本は何故今、中華思想の嗜虐的志向品として弄ばれなけばならないのか。


私は何も、日本を過大評価している訳ではない。ただ、淡々と現実を連ねているに過ぎない。だが、自国の不甲斐なさを棚に上げて、強制連行や従軍慰安婦や強制創氏改名や強制神社参拝等の捏造を生み出し日本を逆恨みしている南北朝鮮は、偽りの差別という名の言論弾圧でこれら真実の歴史すらも消し去ろうとしている。チャングムの誓いなどという捏造ドラマで過去への望郷や幻想を抱くよりも、韓国人は李氏朝鮮時代の現実を直視する必要がある。直視してこそ、自らの民族の問題点が分かり、成長する事が出来る。これらを隠蔽する行為はその場しのぎに過ぎず、朝鮮民族の精神的衰退を助長させるだけだ。
日韓併合後の朝鮮の成長はそれこそ、日本国民の血と汗と、そして朝鮮民族日本民族への厚い信頼によって築かれた。
人とは、現実に目を向けてこそ成長する生き物ではないだろうか。


併合前の朝鮮


江戸とソウル

江戸の整然と区画された瓦屋根が立ち並ぶ景色と、ソウルの粗末な藁葺き平屋が無秩序に乱立する景色。どちらも同時代だが、日朝の歴然とした差が感じ取れる。


朝鮮通信使?朝貢団?


李氏朝鮮は政府として殆ど機能しておらず、首都であるソウルですら荒廃を極めていた。町の至る所、それこそ南大門の前ですら人々の糞尿が道端に溢れかえっていた。当時の朝鮮の家には便所すら無かった。
ソウルの庶民ですら極貧の生活を余儀なくされ、洗濯や体を洗う場合も糞尿が流れている川で洗うしかなかった。韓国式アカスリは、こういった諸事情により生まれた朝鮮独自の知恵だ。そして、木は切られるだけ切られ山は禿山ばかりとなり、朝鮮は極度の環境破壊が進んでいた。


対照的に日本では庶民は豊かになり、生活を楽しむだけではなく身の回りの環境にも拘る余裕が生まれていた。糞尿を衛生的に処理するだけではなく、更に高度なリサイクルシステムが確立されていた。無論、道端も清潔で川や周辺地域も環境破壊されていなかった。
世界一の人口を有しながら、これだけ清潔で整然とされた都市は同時代には他に存在しない。糞尿は周辺農家によって買い取られ肥料として使われていた(有名な話であるが、当時も世界の憧れであったパリ・ベルサイユ宮殿にもトイレはなく、糞尿は窓から投げ捨てられていた)。風呂を何処の国の人々よりも愛する清潔好きな日本人の原型は、銭湯を何よりも愛した江戸の人々によって確立されたと言っても過言ではない。


持続可能だった江戸時代


江戸の日本では自分だけの楽しみだけではなく、環境にも配慮する余裕が生まれていたとの事は分かったが、では人々の品行はどうだったのか。これも既に世界一といっても良い程に進んでいた。
朝鮮は商店も存在せず貨幣システムすらも崩壊寸前で、自分一人が今日生きていくだけでも手一杯の時代、隣国日本では相手への遠慮や配慮が確立されていた。
庶民のモラルにおいても、江戸とソウルでは雲泥の違いがあった。


今回、ドイツにおいて韓国の常識を持ち出し様々な無礼を働いた韓国人サポーターも、李氏朝鮮時代から何も変わっていないのだろうか。フランクフルトで韓国が勝った際、歓喜した韓国人サポーターはフランクフルト中で場所も弁えず暴れまくり、ドイツ人から大きな反感を買った。更にはスイス対韓国戦において、決定的な誤審ではないのに韓国民は国をあげて誤審だと喧伝し、韓国のネット住人はFIFAのサイトを攻撃した(前回のワールドカップで、審判を買収して勝ち進んだ国は何処の国だったのか)。
彼らは、アジアのフーリガンになるつもりなのだろうか・・・。韓国のみならず、アジア全体の印象を悪くするような行為は慎む必要がある。幸いだったのは、韓国戦の審判が日本人ではなかった事か。


特集WORLD:ちょいと江戸しぐさ 共生目指す粋な暮らし−特集ワールド:MSN

(抜粋)代表的な江戸しぐさは、すれ違う際、傘を人のいない方に傾ける「傘かしげ」▽ぶつからないよう右腕を引く「肩引き」▽腰を少し浮かせて空席を作る「こぶし腰浮かせ」。でもこれらはほんの序の口。一説には、江戸しぐさは約8800にも上るといわれる。
 著作や講演で、その伝承活動に取り組んできた越川禮子さん(79)によると、徳川幕府の最盛期、江戸には100万人以上が住み、その半分を町方と呼ばれる商工業者が占めた。だが、町方の居住面積は江戸全体の約16%。狭い場所での暮らしをできるだけ心地よくしようと、リーダー格の商人たちが考案したのが江戸しぐさだった。
 越川さんは20年ほど前、江戸しぐさに興味を持ち、研究を始めたが、江戸の町人たちは「文章にすると俗化する」との考えから、もっぱら口伝えで体で覚えるようにしてきたため、文献らしきものは残っていなかった。
 91年に、ようやく伝承者の芝三光(しばみつあきら)(本名・小林和雄)氏を探し当てた。芝氏は芝白金三光町(現在の東京都港区白金)の旧家出身。戦中は国文学、戦後に電子工学を学び、科学雑誌の編集長を務めたが、体を壊して引退。以後約40年間、先祖伝来の江戸しぐさの講演などに専念した。越川さんは「消えつつある口承文化を、ぜひ聞き書きさせてほしい」と説得。99年に芝氏が亡くなるまで面接を重ね、その成果をこれまでに3冊の本にまとめている。
 越川さんが苦労の末に発掘した江戸しぐさの中から、いまも活用できそうなものをピックアップしてみよう。
 <三脱(さんだつ)の教え>初対面の人に年齢、職業、地位の三つを聞かないしきたり。江戸後期になると、経済力を蓄えた町方は武家に対して身分の差を意識しなくなった。こうした機運の中で先入観を捨て、誰とでも同じ目線で付き合う姿勢が生まれた。
 最も下品とされたのが、弱い立場の人に威張ること。「たかが選手が」と言い放った球団経営者などは、この精神を学ぶべきか?
 <用心しぐさ>昨年は女児の殺害事件が相次いだが、江戸も人の出入りが多く、油断ならなかった。だが、当時は地域ぐるみで子供を守る意気込みがあり、万が一、地元で人さらいなどが起きれば、住民全員の恥。子供たちも、知らない人の言葉をうのみにしないようしつけられていた。
 <百人番頭>江戸のビジネス界は、適材適所主義で活気にあふれていた。大店(おおだな)には「島耕作」のようなやり手の管理職がおり、部下を大勢動かせることからこんな別名があった。
 「商家は女次第」ともいわれ、特に旅籠(はたご)や料亭などでは女性が活躍した。「明和の三美人」の一人とされる笠森おせんは、豊かな教養と落ち着いた声で武士らに応対し、谷中の水茶屋を繁盛させたという。
 江戸っ子は腕比べ、知恵比べの競争心にあふれていたが、決して弱肉強食の社会ではなかった。失敗こそ次へのステップと考え、「負け組」を励ますことも忘れなかった。例えば花相撲の後、タニマチは黒星力士だけを集めて盛大な宴会を催した。
 <尊異論>異質な意見や価値観にも耳を傾け、外国とも共存することを心がけていた。芝氏は「明治以降、天皇が現人神(あらひとがみ)になり、批判精神が許されずに戦争が起きた」と嘆いていたという。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)でアルバイトしたこともある同氏は、その合理主義、理想主義に江戸しぐさとの共通点を見いだし、大いに示唆を受けたそうだ。ひょっとしたら江戸しぐさは、日本土着の民主主義だったのかもしれない。
 江戸しぐさが完成したのは江戸末期の文化文政時代(1804〜30年)で、町民文化はらん熟していた。いまと同様に物が余り、少子化傾向もあったという。
 越川さんは「江戸しぐさは単なるマナー、処世術ではありません。日本のある絶頂期に生まれた、誇り高い人生哲学といえるものです。自由かっ達な共生社会を目指すその思想は、21世紀を生きるわれわれにも十分ヒントになります」と話す。


日韓友好とは、お互いの違いを知ってこそ達成できるのではないだろうか。民族的気質は一朝一夕で成り立つものではない。歴史を紐解くと、民族的気質が簡単には変わらないとの事が良く理解できる。遠慮を尊ぶ民族と自己主張の強い民族、これらが分かり合える時代は来るのだろうか。近くて遠い朝鮮民族日本民族。私は、ドイツ民族のほうが、朝鮮民族よりも日本民族に近いような気がしてならない。


余談だが、尊異論は戦前の日本で既に根付いており、中国や朝鮮の中華思想に由来する攘夷論とは一線を画していた。だからこそ日本は欧米の技術をアジア諸国内でいち早く受け入れ、併合時代の台湾や朝鮮は発展し、大東亜戦争においても日本軍はアジア諸国から解放軍として迎えられる事が出来た。
南京大虐殺の捏造を支援する毎日新聞だから、仕方のない社説か・・・。さて、戦後になって歪められ弾劾された大東亜共栄圏思想。今なら、これも何か新しい発見が出来るのではないだろうか。冤罪は解かなければならない。
何度も言うが、民族気質は簡単には変わらない。


ドイツとメランコリー-韓国人の差別体質


ドイツとメランコリー−朝鮮に踏みにじられる済州島